154- きみが望んでいるものは
きみの書いた、一冊のノートをぼくはそっと閉じた。
彼女が望んでいるものは、きっと昔に帰ることじゃない。
誰かじゃない。
どこかじゃない。
何かじゃない。
153- 10年ごしの時間旅行
見覚えのある、いや、鮮明に記憶の中にある、窓から見えている景色。
心臓が高鳴る。電車がゆっくりと減速していく。1秒がとても長く感じる。
プシュー
ドアが開く。
ホームに足を踏み入れたその瞬間、何かが奥深くから込み上げてきて、涙が溢れ出す。
よく知っている匂いがした。
この街は、生きてたんだ。
私がいない10年の間も、生きてたんだ。
駅のホームに降り立ったその瞬間、匂いがした。
どこか懐かしいような、でも日常のような、よく知っている匂いが。喉から手が出るくらい、恋焦がれていた匂いが。
その瞬間、涙がぼろぼろとこぼれてきた。
この街は生きてる。呼吸をしている。
駅前のパン屋さん、急こう配の石階段、道路を行きかう人々、青々と茂る草、砂利がへこんでできた水たまり。
10年ものあいだ、いつもと変わらない時間が流れていたことがわかった。
そしてそこには、私が生きていた証がたくさん詰まっていた。
生きている。
この街は生きてたんだ。
私がいなくなってからも。
生きてたんだ。
なくなってはいなかったんだ。
私はここでたしかに生きてたんだ。
大切な人たちと、生きていたんだ。
なくなってはいなかったんだ。
生きてたんだ。
青い空の下、次から次へと涙がこぼれ落ちて、
声を上げて泣いた。
あの日から止まっていた自分の中の歯車が動き出して、止まっていた時計が音を立ててゆっくりと動いた。
152- 子どもの頃に置いてきたもの
私が置いてきたものは、大人になって取り戻せないものだ。
埋められない。
そう、代用が効かない。
この感情と、ずっと共生していくしかない。
でも、苦しい。
150- いま、もしも願いが叶うのなら
もしも…もしも…
もしも願いがひとつだけ叶うのなら…
もう一度…
もしも、もしもいま、願いがたった一つだけ叶うのなら、
あの頃にひとときだけ時間を戻してほしい。
何かのまちがいが起こって、時空が歪んで、
一瞬だけ、時間が戻ってほしい。
1日だけでいい。1時間でもいい。
たったひとときでいい。
そのあとに起こることなんて何も知らず、
ただ大切な人たちに囲まれて、ただ愛して、愛されて、あのあたたかい空気の中で、
もう一度だけ、もう一度だけ、息を吸いたい。
1日でいい、一瞬でもいい。
あの温もりを、
お父さんも、お母さんも、私も、弟も、何も知らずにただ幸せだったあの頃を、
あの温もりの中にもう一度だけ。
149- 家族の楽しい時間を返して
夕暮れ時のオレンジ色の空と土草の匂いに、キャンプを思い出す。
それだって、夏休みの何ヶ月も前から電話して、なかなか繋がらない中予約をとって。子どもたちの楽しみのために。
クリスマスのシーズン。
鮮やかに彩られたクリスマスの飾り。
知らない曲でも、耳にすればこれはきっとクリスマスの曲だとわかるような、クリスマス特有のメロディー。
街で見かけるクリスマスのシーズンのものを見ると、クリスマスの飾りに彩られたテーマパークを思い出す。
匂いも、音も、空気も、すべて。
私たち家族がまだ、何も知らなかった頃。
ただしあわせで温かな空間で。
それはずっと続くはずだった。
もう戻ってこない。
私が壊したんだ。
4人分の夢を、
大切なときを、
温かい日々を、
私が壊した。