10年ごしの時間旅行(小説)

子どものころ両親の仕事の都合で転校を経験した少女の物語。「カテゴリー:プロローグ」からお読みください。

54- 母の心の防衛


死んだように学校で息をして、やっと一日が終わって家に帰れば、口から出る言葉は「帰りたい」だった。
毎日帰りたいという娘を目の前に、母は日に日にまいっていった。
やっぱり、この子を転校させない方が良かったんじゃないか。あのままいさせてあげた方がこの子のためには良かったんじゃないか。
子どもの前では元気に振る舞っているが、ひとフロア地続きのマンションだ。
母が日に日に弱っていくことにどうしたって気づいてしまう。

でももう、
ここで帰りたいと言えないと、ここしか、ここでしか、私が助けを求められる場所がないのだ。
親を困らせようとか、引っ越ししたことを後悔させようとか思ってやってるんじゃない。
ギリギリのところで生きているから、ギリギリ声を上げられるところがここだけなんだよ。じゃないと今にもおぼれて死んでしまいそうなんだ。

学校から帰って子どもから話される学校の様子は決して愉快なものではなく、ネガティブな方に寄っていた。
母は、自分たちのせいで娘がつらい思いをしているということを、信じたくなかったんだろう。
すべて、なかったことにしたかったんだろう。
私がネガティブな話をしようとしても、「でもこうだったんでしょ」と結末をポジティブな話にすり替えようとすることが増えた。

そしてこの頃になって、母は「前いた街はよかったよねぇ」としきりに言うようになった。
それ、私はどういう気持ちで聞いてると思ってるの?
あれだけ、もといた街を離れるのは嫌だと言ったじゃないか。
決してきれいじゃないかもしれないけど、あたたかくていい街だって言ったじゃないか。
それなのに、何をいまさら。そんなこと言わないでくれ。
聞いてるこちらの身にもなってくれ。


当時は、母から「前いた街はよかったよねぇ」という主旨のことを言われるとどうしようもなくきつかったが、
大人になってみると、母の発言の真意がよくわかる。
もといた街にいた頃は、生き生きとしていた私。
そして新しい街に来てからは、毎日死んだように生きるようになっていった私。
母もこの新しい街を嫌うようになった。


しかし母が「前いた街はよかった」という話をするたび、家を買う決断をした父の心に影を落としていった。